木の王に会う(その1)

フランスについて、ここらですこし書いておきましょうか。なにしろ、大学は日本文学専攻でしたが、大学院はフランス文学専攻を選び、そこを出てからも、長いことフランス語の教師をしていましたから。
ところが、困ったことに、あまり語ることもありません。たしかに私は、資料収集などもかねて毎年のようにフランスを訪れ、一年間パリで暮らしたこともあるくらいですから、よく人から、フランスがお好きなんですね、とか、いろいろフランスのことお詳しいんでしょ、とか言われるのですが、なかなかどうして、フランスがとくに好きでもないようですし、フランスでの生活のあれこれについて訊かれても答えられないことがしばしばなのです。基本的にそういうことに関心がないせいか、要するに忘れてしまうんですね、そのつど。これはもう私の能力の問題であって、おそらくロシアで暮らしても中国で暮らしても事情は同じだろうと思います。
逆にいうとしかし、そのつど忘れてしまうからこそ、つぎに訪れたときのフランスがさながら未知の国に思えて、だから旅はいいよなあと妙に納得したり、地下鉄のチケットはどうやって買うんだったっけ、国際電話をかけるときの頭の番号はええっと何だったっけ、と懲りずにやらかして妻に叱られている永遠のビギナー、それが私であるわけです。
そしてくだらないこと、どうでもいいことをきわめて鮮明に覚えていたり、それを知ったからといって私以外の人には何の役にも立たないようなことに、おそろしく詳しかったりします。たとえば樹木です。ばかばかしくも、なぜかフランスに行って木を眺めるのが好きなんですね、自然と木の名前なんかも覚えてしまう。
こういうことがありました。はるかな昔、日本人のフランス語教師をフランス政府が招聘して行う研修、スタージュというんですけど、それに参加していたときのことです。みんなでどこかの街を歩いていて、ほら、ヨーロッパの街路樹って枝をのびのびと伸ばしていて立派でしょ、それを見上げながら歩いていて、ところがその木の名前を教師仲間がことごとく間違えるんですね。菩提樹をみてはマロニエだといい、マロニエをみてはプラタナスだという。
おいおいと思いました。フランス語フランス文学の専門家なのに、樹木の名前もろくに知らないのかよ。本ばかり読んできて、野外のことにはあまり関心が向かなかったのでしょうか。いや、本の世界でも、マロニエの根をみて吐き気をおぼえたあのロカンタンなどは、これでは浮かばれますまい。まあ樹木の名前を知らないからといって生活に支障が生じるわけではありませんし、フランス屋さん(フランス関係の専門家をさしていう蔑称的な呼び名)に向かって、ちがうよあれは菩提樹だよ菩提樹、フランス語でティユール、ほらあのハーブティーに使うやつ、などと誤りを正すのもなんだが気がひけて、結局何も言いませんでしたけど。

ポエジー夜話特別版(続々々々)

ひきつづき、東日本大震災に接して書いた詩です。この国は復興するでしょう。それが人間の活動、あるいは「生存」というものです。しかし、突然に「生存」を断ち切られてしまった人々の「存在」はどうなるのでしょう。詩的想像力が引き受けるしかないような気もします。




階段の途中に

階段の途中に
屈葬のかたちで
あのひとは倒れていました
まるであの瞬間
消し得ないあの瞬間を
抱え込むようにして
あるいは海を
衝動的に海を
抱え込むようにして
死を考える余裕はなかったと思います
なぜならすぐ上の階に
あたりまえのように希望は
あったのですから
しかしもう
私には悼む言葉もありません
たとえ屈葬のかたちでも
あのひとは抱えたのです
語り得ぬすべてを
おのれの生命を奪った海をさえ
抱えたのです




私は立ち去らない


私は立ち去らない
昨日までは
立ち去るつもりでいた
この世の果ての海のほうへと
ひとり
思い立って
盥の舟のなかを
だがきょう
この世の果ての海のほうが
押し寄せてきたのだ


私は立ち
去らない
立ち去る必要がない
海とともに
ウラン
プルトニウム
それらこの世の果ての物質までもが
すべてここに
来てしまったのだ
おぞましく
微粒を
きらめかせながら


私は立ち去らない
微粒にまみれ
不幸という名の健康を
取り戻すだろう

ポエジー夜話特別版(続々々)

即興的にせよ、こんなときにどんどん詩が書けてしまうというのは異常でしょうか。でも、書きます。書くほかありません。




谷底のアポカリプス


私は歩きまわり
仕事をしなければならない
災厄がこの地を覆い
ウランがめざめているのだから
おののきの夜の風
無をめぐる息
その外に出ようとすると
風もまた私の身体を包み返そうとする
おろおろと
つとめて歩きまわり
仕事をしなければならない
長時間歩いても疲れない靴と
何らかの情報端末
ミネラルウォーター
それに厚手のジャケットが必要だ
凍りついた日付のうえで
なおも不穏な音を響かせているヘリコプター
仮眠をとったら
谷底のアポカリプスを読み取りに
さあ降りてゆこう
ウランがついに
めざめているのだから
地下街で眠ることを覚悟し
危険に囲まれたなかで
つとめて仕事を
しなければならない
移動から移動へ
その空隙をこそ人と名づけ
みやびな遺伝子は捨てよ
聾の夜のエリアを
肺胞はきりりとまろび出てゆくがいい
鎮めえぬ無数の生の記憶が
粘土のような私の心のどこかにも
浮いているのだ
死のときの白色ノイズさえきこえ
だが苛立ってはならない
つねに冷静さをたもち
ばかあかい泥濘を抱え込みながら
頭部では沈黙がキーンキーンとなって
淡く蒼い球が跳ねるだろう
読み取れ
もう鏡はないのですね
もう貨幣が流れるばかりではないのですね
苔むすだろう忍耐
キツクもなくヌルクもなく
風がまた吹き始め
人という空隙が
ほそい骨のようにふるえている
つとめて歩きまわり
仕事をしなければならない
私はきらら共生の
きらら
私はさりさり怒りの血の
さりさり

ポエジー夜話特別版(続々)

廃墟について




くり返し
廃墟はあらわれる
私たちの悲しみ 私たちの怒り


くり返し
廃墟はあらわれる
私たちの恐れ 私たちのおののき


くり返し
私たちは廃墟に立つ
無音の叫びをきき 光年の雫を浴び


くり返し
私たちは廃墟に立つ
記憶の森 年代記の谷


くり返し
廃墟はあらわれる
なぜ という問いを越えて


くり返し
私たちのなかにまで
瓦礫は及び ひとの生の痕跡は及び


くり返し
私たちは廃墟に立つ
それが地上の掟 でもあるかのように


くり返し
廃墟はあらわれる
私たちをつらぬき 私たちを置き去りにして


くりかえし
廃墟はあらわれる
私たちの祈り 私たちのちから


くり返し
廃墟と私たちと
そう 私たちというほの暗い発光体

ポエジー夜話特別版(続)

大震災に接して茫然としたまま、ふたたび即興的に詩を書きました。


母の手


まるで空襲のあとのような
津波で破壊された町を
ひとりの
美しく年老いた女性がさまよっていた
テレビの取材クルーが近づくと
息子を捜しているという
息子さんのお名前は?
災害伝言板のつもりでクルーは訊ねた
すると突然
彼女は取り乱し始めた
名前は教えたくない
教えたらもう息子は帰ってこない気がするから
そう言って
顔を手で覆って泣いた
手で覆って
おそらくそこに
永遠に
息子の名前を閉じ込めたのだ
固有名詞とは
そういうものだろう
テレビをへだてて
私はその顔を
その手を
心の内奥に招き入れる
もう手放すことはない私の生きる糧だ

ポエジー夜話特別版

地震発生の3月11日午後2時46分以降、ショックと心痛で仕事に手が着かなくなりました。きょう14日、これではいけないと思い、パソコンに向かいました。私は詩を書くしか能がないので、詩を書きます。




2011年3月11日


私は泣いている
町が消えた
人が消えた
うみやまのあいだに糧をもとめ
住まいを定めてきた私たち
その生のかたちが根こそぎ津波に奪われてしまった


私は泣いている
町が消えた
人が消えた
津波の到来を伝えるサイレンは
むしろ私たちのうみやまのあいだが発する
絶望の叫びのように聞こえた


私は泣いている
いやちがう
私のなかでもサイレンは鳴り響き
涙を蒸留して得られた小さな救援隊が
うみやまのあいだへ
いま出発する

2010年の詩集から(3)

旧「洗濯船」同人たちによる詩集刊行の同時多発ぶりを書いていますが、きわめつけは城戸朱理。『世界─海』(思潮社)と『幻の母』(思潮社)と、ひとりで二冊の詩集を同時刊行してしまったのですから。城戸さんはかつて、「洗濯船」の主導的役割を果たし、なかんずく、吉岡実エズラ・パウンドに言及しつつ、それらの系譜のうえに自分たちの詩作を位置づけようとしました。すなわち、個を超えた膨大な知の収蔵体としての主体を設定し、そこから、彼自身の評論集のタイトルをかりるなら、「潜在性の海」のような言語空間を立ち上げること。そのコンセプトを引き継いでいるのが、『世界─海』という詩集です。
一方、『幻の母』のほうは、北国岩手の出身らしい、清冽な抒情の書き手としての城戸朱理がよくあらわれています。いわば、より彼自身となった彼ですね。じっさい、「跋」にもあるように、本書のモチーフは「故郷に流れる北上川を河口から歩き始めて、その源流を訪ねてみたい」ということらしい。単純な、しかし切実でもある希求ですね。そうしてそれは、「求めるほどに遠ざかり/探すほどに隔って」という認識へと上書きされてゆく。そもそも、起源などというものは人間が勝手につくりだした幻想であって、川の水のより根源的な営みはそんなレベルをいともかんたんに乗り越えてしまうのです。
最後に、若手の詩集から、高橋正英の『クレピト』(ふらんす堂)を挙げておきましょう。頁を開いたとたん、意味よりなによりさきに、その詩の空間の美しさに眼が奪われました。凡百の新人とは言葉のセンスがちがう感じですけど、それは殆ど見た瞬間にわかるものなんですね。
タイトルの「クレピト」とは、ラテン語で「音がする、ひびく」という意味らしい。しかしまた、「クレ」は同じラテン語で「信仰箇条」を意味する「クレド」を呼び、「ピト」は日本語の「ひと」に音通するから、なんとなく「信仰の人」みたいな裏の意味をひそませている気配もあります。
というのも、高橋さんは僧侶でもあって、この詩集も、詩を通じてどことなく仏教的な宇宙観が語られているような趣があるからです。いや、詩はたんなる手段ではないでしょう。仏教的な宇宙観を通じて、詩もまた探求されているんですね。とくに印象的なのは、「こうして涌きいでてきたもののどこへゆくこともなくどこへもゆけずに/だってどこもここではないと言うものたち」というフレーズが、やや変奏されながらも繰り返しあらわれることで、それは「今ここ」こそが宇宙一切という作者の宗教的法悦を語りながら、同時に、この詩集に「涌きいでて」くる言葉そのものの姿を映してもいるのでしょう。
こうして、頁から頁へ、いわば言葉のエロスをひびかせながら、そのふるまいが信仰の深まりでもあるようにすること。それが高橋さんの希求でもあるでしょうか。となると、すぐさま私などは宮沢賢治の世界を想起してしまいますが、おそらく両者は近いと思われます。