全米朗読ツアー(その4)

前夜の感激もさめやらぬまま、早朝にアイオワシティを旅立ち、空路で、全米朗読ツアー最後の訪問地サンフランシスコへ向かいました。霧の都を訪れるのは7年ぶり2度目。前回はアメリカ文学山内功一郎氏の紹介で、アメリカを代表する詩人のひとりマイケル・パーマー氏の歓待を受け、彼の家で私の朗読会をひらいてもらうなど、忘れがたい思い出となりました。いや、そもそも私の詩の英語圏への紹介はパーマー氏と山内氏が共同で行った数篇の英訳が皮切りで、すべてはそこから始まったといっても過言ではないんですね。
サンフランシスコは夏涼しく冬温かい気候なので、今回の訪問地ではいちばん寒いかもと思っていたのですが、アイオワが急な寒気の流入で季節外れの寒さだったため、むしろ暑く感じられるほどでした。投宿先は、ガンダー氏が定宿としているらしいラックスホテル。バーの名前がライブラリーで、壁にはコクトーのデッサン、各部屋のドアノブにはマン・レイの眼球の写真が貼られてあるという、スノッブな香り漂うデザイナーズホテルです。
朗読会場は、かつてのヒッピーの聖地ヘイト通りにある書店ブックスミス。『Spectacle & Pigsty』の版元Omnidawnのケン・キーガン氏夫妻が出迎えてくれました。Omnidawnは夫妻が中心になってやっている文学専門の小さな出版社で、日本でいえば書肆山田といったところでしょうか。スタッフとマイクチェックをしていたら、ポンと肩をたたかれ、振り返ったらパーマー氏夫妻でした。驚愕し、感激し、朗読本番へ。
朗読したのは「ゆるやかな蝶番」、「あるいは深淵」、「デジャヴュ街道」、そして「あるいは波」の4篇。ここでは「あるいは波」のリフレイン部分を英訳とともに掲げておきます。朗読する私のかたわらで、同行した野村真里子(私の妻です、フラメンコダンサーをしています)が「眠れない女」のひとりとなって踊ってくれました。

わたくしの果ての世の月明かりの
液晶の海に
ちらちら
みえているのは
あれは人魚でも波でもなく
眠れない女たち

at the edge of the world within me
illuminated by moonlight
flickering
in a liquid crystal sea
are neither mermaids nor waves
bet sleepless women

全米朗読ツアー(その3)

ニューヨークからシカゴに飛び、さらにそこでプロペラ機に乗り換えて、中西部の学園都アイオワシティへ。そこが三番目の訪問地でした。6年前、アイオワ大学のIWP(国際創作プログラム)のフェロー(恭子さんもそうでした)として滞在して以来の再訪です。なんというなつかしさ。
午後、朗読のまえに、恭子さんと一緒に、IWPのオフィスがあるシャンボーハウスに赴くと、ディレクターのクリスは海外出張で不在でしたが、教授のナターシャと再会、彼女が担当している翻訳のクラスに顔を出しました。というのも、私の詩「そして豚小屋」がその日のテクストになっていて、恭子さんがその英訳のプロセスや問題点をプレゼンすることになっていたからです。私も作者としていろいろ質問されました。たとえば、豚小屋と主体を結びつけるのはアメリカではおよそ考えられないショッキングなことだが、どうしてそういうことになったのか。私は答えました。豚小屋というのは、農家に生まれた私にとっては性や排泄が集約されている特権的な場所ですけど、文学とは、つきつめれば自己の誕生をどう捉えるかということでしょうから、そういう場合にまさに豚小屋のイメージがぴったりなんですね。また、母の死をモチーフにしたこの奇妙な詩は、はるかに斎藤茂吉の「死にたまふ母」連作をふまえており、日本語シンタックスの揺らぎをつくりだしながら、ある意味で短歌的抒情の脱構築をめざしていいます、というようなことも述べました。
夜、ダウンタウンにあるプレーリーライト書店で朗読パフォーマンス。比較文学のニコラス・タイソン教授によるイントロダクションのあと、日本語原文(私)と英訳(恭子さん)で、「そして豚小屋」「散文考」「ゆるやかな蝶番」「デジャヴュ街道」の4篇が読まれました。言語実験の小篇「ゆるやかな蝶番」がどのように英訳されたか、その一部を掲げておきます。

消え去るのをはばたいて私は鳥がみた
狂念もうこれっきりと
消え去るのを鳥がみた私ははばたいて

fluttering I’ ve gone from sight seeing a bird
reverie enough
fluttering seen a bird gone from sight I’ ve

終わって、ナターシャが近くのビストロに関係者を連れて行き、打ち上げの会食。私も恭子さんも、ナターシャにとっては教え子のようなもので、それがこんなふうに戻ってきてくれたのだから、うれしくてたまらないというふうでした。別れぎわ、彼女はもう泣き出しそうな顔になっていました。

全米朗読ツアー(その2)

つぎに訪れたのは、ニューヨーク。プロヴィデンスから鉄道Amtrackでの移動です。私にとってニューヨークはじつに12年ぶり、あのときはまだツインのワールドトレードセンターがそびえ立っていました。そこで、朗読の前に、その跡地、いわゆるグラウンド・ゼロに行ってみると、巨大な工事現場と化していて、いくつもの斬新なデザインの高層ビルが建ち上がりつつあり、グランド・ゼロの面影はもうありません。いや、それは囲いのなかに保護されていて、外からはうかがい知ることができないのです。予約しておけばその囲いの中に入れるらしく、じっさい、そういう人たちの行列ができていました。そして、それよりもはるかに多くの観光客たちが、囲いのまわりをぞろぞろぞろぞろ、新ビル群や犠牲者の慰霊碑を写真に収めたりしています。つまりいまや、グラウンド・ゼロは巨大な観光地とも化しているのであって、往時茫々がこのカタストロフの場にも押し寄せているんですね、いやはや。
そのグラウンド・ゼロにほどちかい「詩人の家」が、ニューヨークでの朗読会場でした。1階にロビーとホール、2階に図書室や会議室という、日本では考えられないようなうらやましい施設です。ガンダー氏のやや長めのイントロダクションでは、田村隆一吉増剛造のあとに来るのが野村だ、というような身に余る紹介をされ、面はゆい思いをしました。そのあと、私、フォレスト、恭子さんの3人で、「街の衣のいちまい下の虹は蛇だ(コーダ)」「あるいはマンハッタン」「デジャヴュ街道」「あるいは波」の4篇を朗読。「ご当地ソング」ともいうべき「あるいはマンハッタン」が結構受けたので、その最終数行を掲げておきます。

マンハッタンとは
剝きあらわれ(剝きあらわれ

気がつくと
もうクイーンズボロ橋を渡りきって
私たちはまだ
無人の喉への
挨拶の言葉をもたない

Manhattan is
unbinding and emerging (unbinding and emerging

suddenly
having crossed the Queensboro Bridge
we pull up short
of a greeting
to those throated hollows

全米朗読ツアー(その1)

このたび、私の初の英訳選詩集

Spectacle & Pigsty
Kiwao Nomura
translated by
Forrest Gander & Kyoko Yoshida
Omnidawn, 2011

が刊行され、それを記念するアメリカ朗読ツアーがガンダー氏ならびに出版サイドのプロデュースで行われました。全米4都市を一週間でまわるという強行スケジュールで、ガンダー氏いわく、「ロックンロールのツアーのような」、しかし私にとっては夢のような7日間でもあり、以下にそのあらましを報告してみます。なお、コーディネーターである共訳者の吉田恭子さんが通訳を兼ねて同行してくれました。ありがたいことです。
最初の訪問地は、東海岸ロードアイランド州の州都プロヴィデンスニューイングランド特有の、ため息が出るほど緑豊かな学園都市でもあります。共訳者の詩人フォレスト・ガンダー氏は、そこにあるブラウン大学創作コースの教授で、今回の朗読ツアーにあたってもその実現に尽力してくれました。会場となったのは、英文科の建物内にあるホールで、数十人の聴衆が集まってきています。ガンダー氏によるイントロダクションのあと、朗読パフォーマンスが始まりました。読んだのは以下の3篇です。「そして豚小屋」「デジャヴュ街道」「あるいは波」。
私はもちろん日本語で朗読し、その前か後に、ふたりの共訳者による英訳の朗読がありました。また、「デジャヴュ街道」はCD(音楽+声)とともに、最後の「あるいは波」は、私の妻野村真里子のダンスパフォーマンス付きでした。皮切りとなった「そして豚小屋」の冒頭数行とその英訳を掲げておきます。

私は豚小屋が
ひとはひと星は星にうんざりして
いま異様に飴のように伸びてくる闇その闇かも

私は豚小屋が
その闇のなかをぽつぽつと光の染みさながらに
回帰する豚よあわれ

it’ s pigsty I
the darkness maybe darkness stupendously stretching out now like taffy
man fed up with man star with star

it’ s pigsty I
pity the pig that eternally returns
to the darkness as spattering splotches of light

ついに南米の地を踏みました(その2)

詩祭二日目。数カ所の会場に分かれての、ポエトリー・リーディングがはじまりました。午前中に訪れたバレンシア郊外、カラボボ大学第二キャンパスでは、私の朗読の出番はなかったのに、日本からの客はめずらしいのか、何組もの学生たちから、一緒に写真を撮らせてくれというリクエストがありました。なんだかスターになった感じ。それもそのはず、考えてみれば中南米は、詩人が敬意をもって遇される土地柄なんですね、きっと。
夜、前日と同じカラボベーニョ劇場でのポエトリー・リーディングで、私の出番となりました。「デジャヴュ街道」を、ウードの演奏と私自身の声を録音したCDとともに朗読しましたが、スタッフのミスで、なんとCDがすぐに聞こえなくなるという事態に。録音の声と生声とを追いつ追われつのフーガのように絡ませようとした私のもくろみは見事に失敗、しかし朗読終了後、詩と現実の関係について、いくつかの議論を呼ぶことになりました。というのも、朗読に先立って私は、おおむね以下のようなことを述べておいたからでした。「これから読む詩「デジャヴュ街道」には、なにかしらカタストロフのあとの廃墟といったヴィジョンがでてきます。ご存じのように日本は、この春巨大なカタストロフに襲われました。しかし私はこの詩を、大震災よりもずっと前に書いています。すると詩には予言的な機能があるということになるのでしょうか。」たんなる偶然でしょう、と言う人、いやたしかに詩には特別な力がありそうな気がする、という人。まあさまざまでしたが、いずれにしても、現実と言語はたんなる主従の関係にあるのではなく、むしろ、それこそ追いつ追われつの競合の関係にあるのだ、ということになるのでしょうか。
私以外の朗読はすべてスペイン語で私には理解の外でしたから、ここにコメントすることはできません。あしからず。
プログラムが終了して劇場の外に出たとき、あたりになにか不思議な音が満ちているのに気づきました。はじめ、植え込みや池のなかに何か音響の仕掛けでもあるのかと思いました。やや金属的な鳥のさえずりのような、あるいは甲高くかわいい木管の叫びのような。そういえばホテルのエントランスでも聞こえていました。私は立ち止まり、音源をさがそうとさえしました。すると、詩祭のスタッフのひとりが教えてくれたのです。あれは庭ガエルという蛙の鳴き声ですよ。
その瞬間、私は南米ベネズエラに来た幸福にひたされていました。日本できく蛙の鳴き声なら、草野心平がそのすべてを詩にしてくれています。しかし、それとは全くといっていいほどちがう鳴き声なんですね。鳥のさえずりでもあり、楽の音でもあり、ノイズでもあるのですから。みえないが、なんとも可憐な、それでいて力強い無数の小さな喉のふるえ、そのひとつひとつに大地の微細なリアリティがこめられているような喉のふるえ。これ以上に詩的な何かがあるでしょうか。それは断じて癒しなんかではない。たとえ束の間にせよ、騒々しいまでに晴れやかに私を支えてくれる生きる喜びそのものなのでした。

ついに南米の地を踏みました(その1)

ついに南米の地を踏みました。メキシコには2年前、メキシコシティの詩祭に招かれて行ったことがありますけど、それ以南は今回が初めて。目的の地はベネズエラです。そこの詩祭に招かれたというわけですが、東京羽田からパリを経由したので、気の遠くなるような長旅でした。
現地時間の午後3時、未知の土地を訪れるときのわくわくどきどき感とともに空港に降り立つと、さっそく詩祭スタッフが出迎え。英語の堪能なディエゴという青年が、片言程度の英語の私についてくれます。もっとも、私の方でも今回は、スペイン語でなんとかコミュニケーションが可能な妻を同行させているのですが。専用のバスに乗り込み、しかしそこからが大変でした。詩祭を主催するカラボボ大学は首都カラカスにはなく、そこから車で2時間以上離れたバレンシアという都市にあるのでした。
道中、大都市カラカスを通過しました。標高960メートル。はるかアンデス山脈につながる大地の隆起の、ちょうど北の端にあたります。山の斜面に点々と家がみえはじめたと思ったら、高層のビル群がドーンと姿をみせ、道は3車線の立体交差となって、車はあっというまに近代的な都会のなかに吸い込まれていきました。一方、山の上部のほうには、斜面に張り付いたような貧民街ランチョの圧倒的な広がりもみられ、ビル群との対比がなんとも印象的です。
カラカスをすぎるとハイウエイはふたたび山のなかに入り、やがて高原地帯を走るような感じになりました。熱帯ですが、雨林というよりサバンナに近い緑の風景がつづきます。バレンシアのホテルに着いたときにはもうとっぷりと日も暮れ、それにしても暗い。節電中の東京よりもずっと暗いんですね。
翌日が詩祭第一日目。午前中に、十人ほどの招待詩人全員へのプレスのインタヴューがありました。招待詩人はスペイン語圏が多く、通訳なしのスペイン語で応じています。私の場合は、ディエゴ君を介して、しどろもどろの英語で対応しました。内容は、あなたにとって朗読とは何か、朗読のときどんな工夫をしているか、などなど。私にとって朗読とは、文字の静謐に声の祭りを添えること、眼のためのテクストを解体し、あるいは再構成して、耳のためのアクションに変えること、なんてことをしかし、私が即座に英語で言えるわけないじゃないですか。
夜、カラボベーニョ劇場で、開会式と皮切りのポエトリー・リーディング。挨拶に立った詩祭ディレクターのヴィクトール・エマヌエル・ピントー氏は、弱冠29歳という若き詩人で、しかし早くも風格のようなものがにじみ出ていました。そのあと、今回とくに顕彰されている地元ベネズエラの長老格の詩人とパレスチナ出身でアメリカ在住という若い女性詩人が朗読しました。

木の王に会う(その2)

でも、樹木に関してひとつだけ言いたいことがあります。フランスにかぎらず、ヨーロッパや北米にはオークの木がたくさん生えていますが、日本人はあれをなんで樫と訳してしまうんでしょうね。ウイスキーを寝かせるオークの樽が樫の樽になってしまうし、競馬のオークスに勝った牝馬は樫の女王。まあそれはいいとしても、学生のころ、ロシア文学の誰だったかの小説を読んでいて、テロリストが樫の木の下で休むという場面があったのですが、舞台は北辺の都サンクトペテルブルグなのになんで樫の木があるんだろうと不思議に思ったことがあります。
というのは、日本で樫といえば、シラカシとかアラカシとか、東北以南の暖地に生える常緑木であって、私は埼玉の農家の生まれで家のまわりはぐるりと屋敷森に囲まれていましたが、その主要な樹木がケヤキシラカシケヤキは落葉樹で冬には箒を逆さに立てたような裸木となり、そのあいだにこんもりと常緑の葉むらを保っていたのがシラカシつまり樫にほかならず、それはもう間違いようがなく忘れようもありません。
後年わかりました。サンクトペテルブルグに樫が生えていたわけ、たぶんそれもオークにあたるロシア語を樫と訳していたからなのでしょう。実際のオーク、フランス語ではシェーヌといいますが、その呼び名をもつ木は、同じブナ科とはいえ樫とは似ても似つかぬといってもよい落葉高木であって、日本には生えていませんが、葉は柏餅をつつむあの柏そっくりを小さくした形、ただし木そのものはずっと大木巨木になりますから柏ともいえず、まあ強いていうなら楢、コナラとかミズナラとかのあの楢でしょう。翻訳においてオークはオークのまま、あるいはせめて樫ではなく楢と訳すべきなのです。
フランスの森に行って、そのオークに対面を果たしたときの感激、くだらないゆえにそれもまた忘れることができません。長いあいだ心に思い描いてきた憧れの人に、ようやくめぐり会えたというような。なぜかオークはあまり街路樹としては使われてなくて、それを見るには自然林のようなところに行かなければならず、パリでいえばその東西の端にあるヴァンセンヌとブーローニュというふたつの森ですね、私もブーローニュの森に行って対面を果たしたというわけです。
それはともかく、ヨーロッパ文化のなかでオークの占める位置は大きく、日本でいえばちょうど松にあたるでしょうか、木の王と呼ばれることもあるくらいで、その堂々とした樹形、その豊かに茂った葉むら、そのいかにも堅そうな幹(堅い木=樫ということならまさにその通りですが)などをみていると、なるほどどんな風雪にも耐えられそうな王者の風格をそなえているような気がしてきて、思わず跪きそうになったほどです。しかしそれにしても、たかが木に会ったぐらいでその木にこんなにも心を開いてしまうのですから、自分で言うのも何ですけど、やはり私はよくも悪くも一介の詩人でしかないようです。トホホ。